四国ケーブル乗車記

私が乗り鉄を趣味として約4年間、日本全国のJRと私鉄の全路線の99.1%に乗車した。ところが、山を登るケーブルカーも「線路の上を走る鉄道」であることから、わざわざケーブルカーだけを乗り鉄する旅が後から始まったのである。

これまでに、北九州の八幡駅近くにある皿倉山ケーブル、六甲ケーブル、生駒山ケーブル、西信貴ケーブル、そして箱根の強羅から出る箱根登山ケーブルなどに乗車した。今回は、高松にあるその名も「四国ケーブル」に乗ることになった。会社名は「四国ケーブル株式会社」で路線名が「八栗ケーブル」であり、地図の中、右側の赤線で囲まれた太線が八栗ケーブルである。

八栗ケーブルの位置 (Open Street Map より)

高松には「ことでん」(高松琴平電気鉄道)という鉄道がある。高松から金刀比羅宮(こんぴらさん)へ向かう路線のほかに、源平合戦で有名な屋島の近くを走る志度線があり、その八栗(やくり)駅まで移動する。そこから2キロほどの坂道を登った先に、四国ケーブル株式会社が運営する「八栗ケーブル」の乗り場があるのだ。

調べてみると、八栗ケーブルの終点には四国八十八ヶ所霊場の第85番札所「八栗寺」があるとわかった。そこで旅の始まりとして、まずは京都の東寺へと向かった。新幹線から五重塔が見える、あのお寺である。そもそも東寺は弘法大師(空海)ゆかりの寺であり、ここで納経帳(御朱印帳)を授かり、それを携えて四国八十八ヶ所を巡る習わしがあるらしい。

一般的にイメージする御朱印帳は大人の手のひらより一回り大きい程度だが、東寺で授かった納経帳はそれよりも二回りほど大きなサイズであった。これほどの重みを背負って四国を巡るのかと思うと、身が引き締まる思いである。

東寺で拝受した納経帳 26x18cm

さて、京都での常宿近くにある市営地下鉄四条駅の始発は5時33分。早めに向かったところ、まだ駅のシャッターが閉まっており、しばらく待つことになった。京都駅に着いても始発の新幹線はまだ動いていない時刻だったため、まずは在来線で新大阪駅へと移動。そこからようやく新幹線に乗り込んで岡山駅を目指した。

岡山から高松へ渡り、高松駅から高松築港駅まで5分ほど歩き高松築港駅から「ことでん」に乗り、二駅目の瓦町駅で志度線に乗り換えて、目的の八栗駅に到着したのは9時38分。ここまでの移動時間はすでに4時間を超えていた。

しかし、ここからすぐにケーブルカーの駅へ向かうのではない。まずは、讃岐うどんの朝食である。

向かったのは、創業7年ながら数十台規模の駐車場を構え、外にはテント張りの待合スペースを持つ大人気店「おうどん 瀬戸晴れ」である。地元の方におすすめのメニューを尋ね、定番の「生醤油うどん」をいただいた。

おうどん瀬戸晴れの生醬油うどん (少しずつ醤油を垂らして食べる)

食後、隣席の方にケーブルカーの駅への道を尋ねたところ、「とてもではないが、歩いて登れるような道ではない」とのこと。お言葉に甘えて、駅までの約2キロの急坂を車で送っていただくことになった。実際に車窓から眺める道は、言われた通り、徒歩で登るにはあまりに過酷な上り坂ではあった。何しろケーブルカー駅近くにタクシー営業所があるくらいなのである。

思い返せば、神奈川県伊勢原市にある大山ケーブルや六甲山の摩耶ケーブルの駅も山の中腹にあったのだ。つまりはケーブルカーに乗るのも一苦労なのである。

さて、八栗ケーブルは、毎時0153045分と15分間隔で運行されていて、平日の昼間だったこともあり、乗客は数名であった。

登山口駅の八栗ケーブルカー

山上の駅に着くと、そこからが四国令状第85番札所八栗寺の参道になっている。駅と本堂の間には谷が大きくえぐられていて、参道はその谷を回り込むようにしてU字型に作られている。その山道の途中には、いくつかの御堂があり、寄進者とその金額や年月日が書かれた石柱が所狭しと並んでいる。最近の寄進額の相場は百万円のようであった。

五剣山八栗寺案内図 右下にケーブルカー駅がある

まずは本堂にお参りしてから、記帳をお願いする窓口のある場所「納経所」へ向かう。何しろ生まれて初めてのことなので、正直にそれを伝え、納経帳を差し出しながら、どのようにしたら良いかを尋ねたが、相手は黙って納経帳のページを開いて筆を下ろして墨写り防止の小さく切った新聞紙を挟み、パタンと閉じたのである。あとでそのページを開くと、納経帳の各ページの左上には札所の番号と寺の名前が印刷されていることに初めて気がついた。なお、正式名称「五剣山観自在院八栗寺」のご利益は、商売繁盛や財運向上、縁結び、心願成就など幅広くあるらしい。

納経帳の八十五番目札所のページ

さて、本堂だけでなく大師堂もお参りするようにとの納経所のおじさんのご助言に従った。記帳の代金は500円、お賽銭はそれぞれ100円なので、合計700円の浄財を収めることとなったのである。

この後に八栗ケーブルに乗り下山し、また歩いてうどん屋に入った。今度は約800坪の敷地を誇り、300席もある「うどん本陣 山田家 讃岐本店」である。造り酒屋であった建物は登録有形文化財という店である。また、「ぶっかけ」の元祖ということでもあった。

うどん本陣 山田家 讃岐本店前景 奥の中庭を囲むように三百席がある

登録商標 釜ぶっかけうどん

両足にマメができて急な坂道の歩行が困難となり、うどん屋でタクシーを呼び下山。そこから琴電の八栗駅、高松築港駅を経て、JR高松駅、岡山駅まで戻ったのであるが、そこから新幹線を使わずに在来線で京都に移動したのである。新幹線なら1時間の旅を、在来線で乗り継ぎながら3時間もかけて移動したのである。この移動にはもちろん理由がある。

2026年3月14日に山陽本線の姫路駅とその西側の英賀駅との間に「手柄山平和公園駅」が新規開業したのである。新駅ができるということは、線路も新しくなるということである。つまりは、新駅開業と同時に「未乗車」の区間ができたということなので、その区間を乗りに行かねばならないのである。

東京の人なら、品川駅と田町駅の間にできた「高輪ゲートウエイ」駅によって、山手線のルートが変更されたことはご存知かもしれない。また、東武鉄道「東京スカイツリー」駅の下りホームは2025年12月7日に浅草寄りに移転したので、その時点で昔の完乗記録は抹消され、未乗車区間が出てくるのである。まことに乗り鉄は普段の情報収集とその対応が必要であり、じっとしていられないのである。

なお、2026年3月18日に姫路駅まで来ていながら、その4日前に新駅ができていたことを知らずに大阪方面へ移動してしまったことは今でも後悔しているのである。

 

なお、皿倉山ケーブルは

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箱根登山ケーブルは

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生駒山ケーブルは

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西新羅ケーブルは

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十国峠ケーブルは

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レンズの沼(標準ズーム編)

この文章はカメラの知識とご興味がある方を対象にしております。対象外の方は、この先を読み進めないことをお薦めいたします。

私にはカメラの趣味どころか、成人してからも長い間、カメラを持つことすらなかった。そんな私の初めてのカメラは、仕事で米国への滞在が決まったときに購入した、オリンパス株式会社(現:OMデジタルソリューションズ社、以下OMDS社)の小型フィルムカメラ「XA」だった。その後、ペンタックス社のデジタルカメラ「Optio E60」も購入したが、当時の選定基準はただただ「小型軽量」の一項目だけであった。

オリンパスXA 

次にドイツへ旅行することになり、レンズ交換式のいわゆるデジタル一眼(ミラーレス一眼)をヤフーオークションで落札した。せっかくのレンズ交換式ながら、当時は交換レンズまで頭が回らず、追加のレンズは買わなかった。そしてライン川を下り、ローレライや丘の上の古城を撮影しようとしたときに気がついた。当然ながら、画面の中の遠くのお城は豆粒のように小さく、写真としてまったく見栄えがしないのである。

オリンパスPEN Lite E-PL1 と17mm固定焦点レンズ

帰国後、早速またヤフーオークションでズームレンズを落札した。最も標準的な「14-42mm F3.5-5.6」である。このレンズはマイクロフォーサーズ規格なので、35mm判換算だと焦点距離は2倍の「28-84mm」相当になる。一般に人間の視野は、片眼だと標準レンズに近い50mm、両眼の認識範囲だと14mm(換算28mm)くらいと言われているため、これ一本あれば大抵のシーンには満足できるのである(これを第1番レンズとする)。

ところが、このレンズはズームで焦点距離を動かすと、それに伴ってレンズの開放F値(明るさ)も変化してしまう。さらに、背景や前景を大きくぼかすために、もっと明るいレンズが欲しくなった。そこで、同じような焦点距離をカバーする、少し高価なレンズをまたもやヤフーオークションで落札した。それが「M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm F2.8 PRO」レンズである(これを第2番レンズとする)。

このレンズには、明るさ(通しF2.8)のほかに、第1番のレンズと大きく異なる特色が2点ある。 まずは「防塵防滴性能」である。レンズはピント合わせやズーミングのために、内部の筒がスライドして長くなったり短くなったりする。この隙間から水滴やゴミが侵入すると、内部にカビが生えたり、最悪の場合は故障の原因になったりする。オリンパス(現OMDS)のPROレンズは、他社製品と比較しても極めて強固な防塵防滴仕様を誇っており、これが大きな信頼感につながっている。

もう一点は「マニュアルフォーカスクラッチ機構(MFクラッチ)」である。これはレンズのフォーカスリング自体を手前にスライドさせるだけで、瞬時にオートフォーカス(AF)からマニュアルフォーカス(MF)へ切り替えられる機構だ。AFは便利な機能だが、例えば窓越しに風景を撮影しようとすると手前の金網やガラスの汚れにピントが引っ張られてしまうことがある。どのカメラにもAF/MFの切り替えスイッチはあるが、ファインダーから目を離さずに指先一つで瞬時に切り替えられるこの機構は、実に画期的で便利であった。

次に購入したのは、沈胴式の「14-42mm F3.5-5.6」である。持ち歩き時にはレンズの全長を縮めてコンパクトにし、撮影時には引き出して使用する。ほんの数センチの差ではあるが、携帯性は劇的に向上する(これを第3番レンズとする)。ちなみに、第2番のPROレンズの全長が84mmであるのに対し、こちらは収納時、遥かにコンパクトになる。

14-42mmレンズ長さ比較 (フィルタ付きなので文章説明の長さとは違う)

この3番目のレンズを買う頃には、カメラのボディも複数台に増え、機材も徐々に高級機へとステップアップしていた。最高級の機種もヤフーオークションで落札した。ただし、使わなくなった機材を売却しながらやりくりしていたため、一気に大出費をしたわけではない。 そして、かつての名機の名を受け継いだデジタルカメラ「PEN-F」をオークションで落札した。小型でスナップ撮影に最適なボディだが、手持ちのズームレンズを装着すると、どうしてもレンズ側がやや大きく感じられてしまう。そこでとうとう、収納時の厚みがわずか22.5mmという驚異的な薄さを誇るパンケーキ型電動ズームレンズ「M.ZUIKO DIGITAL ED 14-42mm F3.5-5.6 EZ」を手に入れた(これを第4番レンズとする)。このレンズはカメラの電源を入れると自動的にレンズがせり出す機構があり、さらに別売の自動開閉レンズキャップを装着すれば、完全にキャップレスで撮影に移ることができる。

数年をかけて気がつけば、手元にはほぼ同じ焦点距離をカバーするレンズが4本も残っていた。スペックや利便性を考えれば、最終的にこの第4番の電動ズームレンズが常用レンズになるだろうと思ったが、現実はそうではなかった。 第1番から第3番までのレンズは、ズームリングを指で回した分だけダイレクトに画角が変わる「手動式」である。しかし第4番のレンズは「電動式(パワーズーム)」のため、ズームリングの操作は単なるスイッチ(アップダウンボタン)に過ぎない。そのため、狙った焦点距離に合わせるまでにわずかなタイムラグがあり、微調整のダイレクト感に欠けるのである。

そもそも近年のスマホのカメラ機能はデジタル一眼に迫る、あるいは一部では上回るほどの進化を遂げているが、機能選択をタッチパネルで行う操作感にはどうしても「まどろっこしさ」が残る。そして、第4番の電動沈胴式レンズがもたらす操作感もまた、スマホと同じベクトルを向いた「まどろっこしさ」だったのだ。

だからこそ、紆余曲折を経て行き着いた私の現在のメイン機は、「PEN-F」に「第3番の沈胴式(手動)レンズ」という、アナログなダイレクト感を残した組み合わせなのである。(「PEN-F」は2016年2月発売)

さて、題名の「レンズの沼」というのは、「新しいレンズが次から次へと欲しくなり、買い足す手が止まらなくなってしまう底なしの恐怖(と幸福)の状態」を底なしの沼にハマるという比喩表現である。

十国峠ケーブルカー

私は日本全国の私鉄とJRの全線を完全乗車する、いわゆる「完乗(かんじょう)」の道楽を楽しんでいる。その対象にケーブルカーが含まれていることも、以前ここのブログに書いた。 これまでは、いわゆる電車や地下鉄、路面電車といった「普通の鉄道」だけを対象にした乗り鉄用の記録帳を使っていた。

JR私鉄全線乗りつぶし地図帳 2020年版と2024年版

JTBの関連会社が発行している本なので間違いのないものだったが、2年ほど前、私はその本から「レイルラボ」という乗り鉄記録ウェブサイトへと乗り換えた。紙の本は2年ごとに改訂版が発行されるが、ウエブサイトは常に最新の路線情報が掲載されており、何よりもタダである。旅先での記録登録や閲覧も容易であり、乗車率、乗車距離も自動計算してくれるので便利なのである。

ところが、なんとこのサイトの対象には、ケーブルカーもしっかりと含まれていたのである。

 

「レイルラボ」のサイトはここ

https://raillab.jp/member/tanakin

既に98%以上の鉄道を乗り終えていたのだが、それまでケーブルカーは完全に眼中になかった。そのため、ネットの情報に触れたお陰で、今度は敢えてケーブルカーだけに乗るための旅行を仕切り直さなければならなくなった。 例えば、北九州の八幡地区を見下ろす皿倉山(さらくらやま)をはじめ、六甲山にかかる2つのケーブル、生駒山、信貴山、比叡山、さらには鞍馬山のケーブルカーもわざわざ乗りに行った。それでもまだ、別府の「ラクテンチ」や高松の「四国ケーブル」といった、遠方のケーブルカーが残っているのである。

ところが文字通り「灯台下暗し」で、関東圏にも不覚があった。箱根登山ケーブルカーには最近ようやく乗ったばかりなのだが、同じ箱根エリアにある「十国峠ケーブルカー」にはまだ乗っていなかったのだ。 さて、その箱根登山ケーブルカーであるが、小田急電鉄の終点「箱根湯本駅」から箱根登山鉄道に乗り継ぎ、その終点である「強羅(ごうら)駅」が始発駅となっている。正月恒例の箱根駅伝を観たことがある日本人なら、なんとなく土地勘があるのではないだろうか。駅伝ランナーが小田原から駆け上っていくあのルートの先に、ケーブルカーの駅があるのだ。私は先日、小田原近郊でゴルフをした帰りに、この箱根登山ケーブルカーへと足を延ばし、完乗を果たした。

ゴルフ場から十国峠ケーブル麓駅までのルート

ここで、話はもう一つの盲点、十国峠ケーブルカーへと移る。こちらも箱根にあるのだが、小田原よりも熱海寄り、つまり新幹線で一駅分の距離があるのだ。ゴルフ場からは約37km、山道だから1時間はかかるのである。

ゴルフ終了後、シャワーも浴びず着替えもせずに車へ飛び乗った。ナビをセットすると、ケーブルカーの最終便の1本前に「ちょうど到着する」という見込み。最終便は17時だが、これでは頂上に着いたきり下山できなくなってしまう。つまり、絶対に1645分の便に乗らなければならないのだ。だが、到着予測時刻と発車時刻が同じでは、切符を買うどころか駐車場からホームへ移動する時間すら残されていない。

万事休すかと思われたが、救世主となったのが地図の左上から赤ピンの麓駅へと伸びる青いルート、「箱根ターンパイク」だった。「路面が圧倒的にきれいで走りやすい」「渋滞やトラックの往来がない」「中高速の緩やかなカーブが連続する」といった特徴から、車やバイクの愛好家に「聖地」と呼ばれる有料道路だ。このターンパイクを快走して時間をぐっと短縮できたおかげで、私はなんとかお目当てのケーブルカーに間に合うことができたのである。

十国峠ケーブルカー

ケーブルカーの運賃は往復730円。全長316m、標高差101mの短い路線だが、頂上からはその名の通り、伊豆、駿河、遠江(とおとうみ)、甲斐、信濃、相模、武蔵、安房、上総、下総の「十国」を展望できる。……のである

十国峠山頂のモニュメント


が、当日はあいにくの霧に巻かれて何も見えなかった。もっとも、私の目的はあくまで「乗る」こと。観光は二の次なので、これでも構わないのである。

 

さて、ケーブルカーの運賃自体は730円だったが、そこへ至る箱根ターンパイクの通行料は往復で2,200円かかった。趣味とは、戻ってこないお金と時間をあえて費やすこと。だから、これでよいのである。

それから2週間ほど過ぎた頃、このケーブルカーに関する驚きのニュースが飛び込んできた。なんと、来年の2027年夏にこのケーブルカーは廃線となり、代わりに「十国峠スロープカー(仮名)」が運行開始されるというのである。

「十国峠スロープカー(仮名)」の詳しい情報のサイトは

https://www.jukkoku-cable.jp/news/article/slopecar2027.html

つまりは来年に未乗の新線ができるので。またここに乗りに来なければならないということである。

まことに乗り鉄は賽の河原で石を積むような道楽なのである。

カメラの合理と非合理

日本史を学ぶと学ばざるを問わず、坂本龍馬、近藤勇、伊藤博文の写真を見たことはあるだろう。無論、白黒写真である。ガラス板へ、光に反応して色が変わる化学物質を塗布してレンズを通した像を写す。その化学反応を固定化するための化学処理を、撮影場所に隣接した暗室で行うのである。出来上がった写真は、撮影したガラス板そのものであった。

坂本龍馬の写真

その後に改良が重ねられて、ドイツのライカ社が動画撮影用の35mmフィルムを使ったカメラを発売した。フィルムを巻くことでカメラをコンパクトにでき、携帯性が格段に上がった。

しかし、横36mm、縦24mmのフィルムは当時としては非常にコンパクトであり、画質の面ではある程度の我慢を強いられることから、当時は「小判(ライカ判)」と呼ばれた。これに対して「大判」とは、インチで「シノゴ(4×5:約100mm×125mm)」や「エイトバイテン(8×10:約200mm×250mm)」などという、A4用紙に匹敵するサイズのシートフィルムを指し、こちらも盛んに使われていたのである。

のちにフィルムに塗布する化学物質の粒子が微細化されたことで解像度が上がり、も光の感度も改良向上した。この光の感度はAmerican Standards Associationが定めたため、頭文字を取って「ASA感度」と呼ばれた。晴れた日の屋外撮影なら十分な「ASA100」が一般的であり、やや明るい室内なら撮影できる「ASA400」は高価だったため、一般人が使うことはほぼなかった。例えば、昭和の結婚披露宴のケーキカット写真は、ストロボなしには撮影できなかったのである。

ライカのカメラは今でも三桁万円する高価な「趣味のお道具」であるが、昭和30年代当時であっても、カメラはお金持ちの趣味であった。カメラ本体だけでなく、フィルム代、現像代、紙焼き(プリント)代が重くのしかかったからである。

ライカのカメラと値段例(銀座の中古カメラ店にて)

そこで、オリンパス社(当時)の技術者である米谷氏が、35mmフィルムを半分にして使うハーフサイズカメラを世に問うた。

初代オリンパス ペン

価格は6,000円。発売された1959年当時の大卒初任給が10,200円であり、その頃のカメラが安くても2万~3万円した時代における衝撃的な価格だった。

画面サイズは半分の18mm×24mmになり、普通に構えると縦長の画面になるが、カメラの運転経費(フィルム代)は半分になった。しかも、レンズの光学性能だけは高級機並みに維持し、その他の部分を徹底的にコストダウンしたため大ヒットを記録。日本のカメラメーカーは、ニコン(当時の日本光学)を除いてこぞってハーフサイズカメラを発売したのである。

35mmフィルムハーフサイズ寸法比較

そこから幾星霜かを経て、時代はデジタルへと移行する。初の家庭用デジタルカメラとも言えるApple社の「QuickTake 100」は、約30万画素のカラー撮影が可能だったが、撮影画像を確認できる液晶画面は付いていなかった。

Apple社QuickTake 100


その翌年、カシオ計算機が撮影画像を液晶表示する「QV-10」を発売したことで、一気にデジタルカメラ市場は活気付く。しかし、当時の技術力ではセンサーの受光面積を大きくできなかった。ちなみにQV-10のセンサーサイズは2.9mm×2.2mmである。米粒の半分ほどの大きさで、35mmフィルムの約137分の1という極小サイズであった。ここに25万画素を詰め込み、保存画素数は8万画素という代物だった。

交換レンズビジネスを展開していたニコンやキヤノンは、既存のレンズをそのまま使える35mmフィルムサイズのセンサーを欲した。しかし、当時の技術とコストでは難しかったため、35mmフィルムの長さを「1/√2(約0.7倍)」にした「APS-C」という規格を作った。これによって、35mm用の焦点距離100mmのレンズを装着すると、約1.5倍の「150mm相当」の望遠レンズとして使うことになったのである。

一方、オリンパス社は既存の資産に縛られず、デジタル化に対してゼロベースでカメラの規格を考え直した。かつてApple社が、3.5インチ・フロッピーディスクを世界に先駆けて採用し、のちにiMacで世界に先駆けて不採用としたあのドラスティックな思想に似ていると思うのは、穿ち過ぎだろうか。

センサーサイズ比較

上記イラストの青色が35mmのサイズで、緑はAPS-Cでメーカーによって寸法が若干異なる。Four-Thirds 4/3"と表示されているのが文中のクォータサイズである。

さて、人間の眼の解像度は2,000万~3,000万画素相当とも言われるが、オリンパスはデジタル時代の新規格として、当時の技術バランスを見据えてセンサーサイズを35mmの「長さ半分(面積1/4)」に設定した。つまり、かつてハーフサイズで時代を当てた会社が、今度はデジタルで「クォーターサイズ(フォーサーズ)」の勝負に出たのである。これなら、35mmカメラの焦点距離100mmのレンズと同じ画角を得るのに半分の50mmのレンズで済み、システム全体を劇的に小型軽量化できる。現在、この「マイクロフォーサーズ規格」の団体に属しているのは、パナソニック社を含めて世界で100社以上にのぼる。

ところが、半導体技術の進歩は35mmサイズのセンサー量産をも可能にしたので、ニコンやキヤノン、そしてソニーは「フルサイズ」という魔法の言葉を使って新製品を次々に投入してきた。クォーターサイズとフルサイズでは、レンズを通して入ってくる光の総量に1:4の差があるため、どうしても暗所撮影で差が出る。「やはり小さいセンサーは暗い場所に弱い」という声も囁かれた。だが、半導体の進化は止まらず、センサーの感度はその後もどんどん上昇していく。

かつての「ASA感度」でいえば、オリンパスのクォーターサイズ機であっても、今や100や400どころか「ISO 25600」にまで達している。ふと周りを見回しても、周囲でフラッシュを焚いて撮影しているシーンなど、21世紀に入ってからはほとんど見かけない(なお、記者会見の現場では、複数の照明による色ムラを避けるなどの理由で現在もフラッシュが使われている)。

それでは、小型軽量で十分に実用に耐えるクォーターサイズのカメラが今売れているかというと、そうではない。人々は「フルサイズ」という甘美な響きに誘われ、ニコンやキヤノン、ソニーの大きなカメラを買ってしまうのである。かつて「小判」と呼ばれて鮮明な写真が撮れないというイメージのサイズが、今となっては最高級として喧伝されているのである。

しかし、デジタルのさらなる激震は、カメラ業界そのものの足元をすくいにかかる。始まりは「写メ」というささやかな動きだったが、今や旅行にわざわざ独立したカメラを持ち出す人間はほとんどいなくなってしまった。スマホのカメラで完全に事足りるからである。

例えば最新のiPhone 17 Pro Maxには3本のレンズが搭載されており、そのすべてが4800万画素である。35mm換算で広角の13mmから、デジタルズームやクロップを含めれば1000mm相当の超望遠までをカバーする。ちなみに、キヤノンの最新の超望遠レンズ(1120mm相当にする倍率レンズ込み)は、重さが3.14kg、直径163mm、長さ432mmもある。これにカメラ本体の重量を加えると5kgくらいになってしまうので、一般人が旅行や日常を記録する用途において、iPhoneで十分すぎるのは明白だ。

さらにiPhoneの暗所撮影では、一瞬のうちに複数回シャッターを切り、それらの画像をコンピューターが合成して極上の1枚を作り込む。また、人物撮影などで背景をぼかす「ボケ」の表現についても、かつては明るい大口径レンズが必要だったが、今やスマホ側がレーザー等で対象物との距離を瞬時に計測し、デジタル処理で遠くの景色を美しくボケさせることができる。

背景をぼかした花の写真

私自身、デジタル一眼カメラを何台も買い替えてきて、今でも手元に3台を残しているが、滅多に持ち出さなくなった。クォーターサイズのカメラシステムでさえ、今となっては重く感じるのである。そして外に出て、iPhoneと一眼カメラで同時に撮影してみても、その吐き出す絵の違いが私にはもう分からなくなってしまった。

iPhoneの登場以降、日本のカメラ出荷台数はわずか10年で10分の1にまで激減した。コニカミノルタはカメラ部門をソニーへ譲渡し、京セラやカシオは撤退。ペンタックスはリコーに傘下入りし、オリンパスからもカメラ部門が切り離されて別会社となった。台数が減るとメーカーは高価格帯の高級機種に力を入れてくる。高級機種と高級レンズは重いのが定番である。これは自己撞着である。

今、あえて新しく独立したカメラを買うことは、費用対効果の面から見れば決して合理的ではない。しかし、あの重たいカメラと重たいレンズをわざわざ運び、メカニカルな操作を楽しみ、あるいはそれを作家性として人に見せる(あるいは少しのお道具自慢をする)こと――それ自体が、デジタル一眼カメラを購入する現代人の、極めて「非合理で合理的な理由」なのだろうと思うのである。

絶滅メディア博物館見物記

絶滅メディア博物館は東京の地下鉄丸ノ内線大手町駅から徒歩数分のところにある。そこのキャッチフレーズは「紙と石以外のメディアはすべて絶滅する」というもので、その博物館には紙と石以外のメディアが陳列されているのである。

絶滅メディア博物館入り口表示

博物館のロビーの展示棚

そのメディア(機器)というのは、具体的には「ビデオカメラ」「デジカメ」「タイプライター」「パソコン」「音楽プレーヤー」「携帯電話」「PDA」などであり、考えてみればその多くが20世紀後半から21世紀初頭にかけて生まれては消えていった製品ばかりである。

入口を入った正面には、主にApple社歴代のMacintoshが棚の二段を占めており、銀塩フィルムカメラやフィルム時代の映画・ビデオカメラ、そしてパスポートサイズのビデオカメラ、ウォークマンなど、時代を築いてきた名機たちが陳列されている。

その中で、Macintosh Plus1986年)、初代ボンダイブルーのiMac1998年)、統合ソフトのClarisWorks1993年)、そして初代ウォークマン(1979年)は、実際に自分が使っていた機種であり、深い懐かしさを覚えた。それぞれの登場年代を振り返るだけで、各々の製品に込めた当時の思い出が鮮明に蘇ってくる。

例えば、Macintosh Plusの時代、米国出張先で訪れた企業のほぼ全てのデスクにそれが置かれ、社員たちがネットワークでつながって仕事をしている光景に強い衝撃を受けた。iMacが発売された年には、米国カリフォルニア州のアップル本社へ立ち寄り、日本発売前の実物に触れる機会に恵まれた。(米国での発売から2週間遅れで日本でも発売されたのだが、偶然にも旅行の時期が重なったのである。)また、統合ソフトのClarisWorksが登場した頃には、日本の職場でも誰もがパソコンを使いこなす環境へと移行しつつあったことを思い出した。

新旧iPhone寸法比較

そして、iPhoneである。展示では、写真にあるように実際に手に取って大きさや重さを体感することができた。一番左の初代モデル(2007年)は日本では未発売だったが、翌2008年に「iPhone 3G」が登場した際、徹夜覚悟でソフトバンクショップに並んだ記憶が呼び覚まされる。写真の左から2番目にあるのは、日本における2世代目(※世界的には3世代目のiPhone 3GS)だ。これら黎明期のモデルと、自分が現在使っているiPhone 17 Pro Maxの大きさを比較すると、まさに隔世の感がある。

初期の歴代iPhone

ダイヤル式の黒電話とその前の手回しクランク付きの電話機もあったが、次に目を見張るのはPHSと携帯電話の圧倒的な種類と量である。念のために書き添えるが、PHSは1995年に登場し、2010年には生産中止、2021年にサービス終了となった寿命の短い技術であった。携帯電話より安価であったが、時代の要求に応えられなかったのであろう。

PHSと携帯電話群

なお、ここら辺は私の別のブログを参照されたい。

tanakinskywalker.hatenablog.jp

また、PDAPalmPilotを中心に、シャープ(SHARP)の「ザウルス」、Appleの「Newton」などが並んでいた。当然ながら、ウィルコム(WILLCOM)の「W-ZERO3」もある。これはシャープ、ウィルコム、そしてマイクロソフトが共同開発した画期的な製品であったが、Windows MobileというOSを搭載していた仕様もあって、一般への普及という面では苦戦した製品だった。iPhoneより3年早い登場(2005年)であったが、残念ながらのちのiPhoneの圧倒的な勢いには勝てなかったのである。私はスライドして本体下部からキーボードが現れる仕掛けが気に入っていたが、当時は購入にまでは至らなかった。

ウィルコム(WILLCOM)の「W-ZERO3」

最後に、デジタルカメラの元祖であるAppleの「QuickTake 100」を紹介しておこう。1994年の発売である。画素数は30万画素、液晶ディスプレイはなく、内蔵フラッシュメモリに記録する仕様で外部メモリーカードは使えない。標準画質で32枚しか撮影できなかったが、当時の銀塩フィルムが12枚撮りや24枚撮り、36枚撮りだったことを考えれば、十分に妥当な撮影枚数だったのだろう。この翌年(1995年)、カシオが「QV-10」を発売する。撮影した内容をその場で液晶画面で確認できる仕様が画期的で、これが爆発的なヒットとなってデジカメ普及の起爆剤となった。

Apple社デジカメ元祖 QuickTake

会場には他にも、記録メディアとしてソニーの「メモリースティック」、マルチメディアカード(MMC)、そしてその発展形である「SDカード」が並ぶ。さらにカセットテープやマイクロカセット、果てはデジタルマイクロカセット(NT)といった磁気テープ類から、CDMDDVD、ブルーレイディスクに至るまで、まさに「覇権争いの屍(しかばね)」が累々と横たわっていた。

私の現役時代は、まさしくデジタル黎明期・発展期と完全に見届けてきた。それはまるで、爆発的な生物の進化が起きた古生代の「カンブリア紀」を想起させる。この博物館はその進化の過程を記録するメディア(機器)を4,000種類も収集しているという。

生まれた時からデジタルに囲まれて育ったデジタル・ネイティブの世代には、これらは単なる過去の歴史に映るかもしれない。しかし、不便さと戦いながら世界が激変していく興奮をリアルタイムで生きてきた40歳以上の世代であれば、間違いなくそれぞれの名機に深く感情移入し、思い出が溢れ出して止まらなくなる必見の場所だ。

 

追記:入場券の裏に涼味をひく博物館リストがあったので、載せておく。

お薦めの映像・通信・テクノロジー系ミュージアムリスト

さらにおまけです。

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広島電鉄の循環線

 

かつて日本の各都市を走っていた路面電車は、自動車の普及と渋滞解消のために次々と姿を消していった。日本最古の市電である京都市電をはじめ、東京や福岡、北九州(小倉)などの路線も廃止の憂き目に遭った。ところが興味深いことに、札幌、函館、豊橋、富山などの路面電車は残った。そして広島の路面電車は、廃線や減便どころか、さらなる発展を遂げているのである。

まず、広島という街の特徴を挙げておこう。広島は巨大な三角州(デルタ)の上に形成された街であり、いくつもの川が市内を流れ、地下を掘ればすぐに水が出るため、地下鉄の建設が困難な土地柄であった。現在は「アストラムライン」という新交通システムの一部が地下を走っているが、路面電車は地下鉄と比較して建設費が安く、かつ身近な輸送手段として効率的に運営できる強みがあった。

この広島電鉄(広電)における最近の劇的な変化として、第一に挙げられるのが「広島駅ビル2階への乗り入れ」である。広電が駅ビルの2階へ直接進入するということは、利用者が新幹線や在来線の改札を出てから、段差や階段の上り下りなしにスムーズに乗り換えられることを意味する。これは駅ビルの企画段階から、広電の重要性を強く認識していた証左と言えるだろう。

また、広電が2階に乗り入れることで、かつての地上終着駅(電停)が占めていた面積を別の用途に活用できるようになり、駅前広場の再開発にも大きく寄与しているのである。

廃止直前の広電広島駅地上電停と背後の高架になる新路線

何はともあれ、工事の遅れなどの紆余曲折を経て、20258月、ついに広電は広島駅ビルの2階へと乗り入れることになったのである。

そして、次の改良は、循環線の開設である。東京のJR山手線、名古屋市営地下鉄名城線、京都の市バス205系統、大阪のJR環状線のように、内回り外回りの市内を巡る交通手段ができたのである。循環線のメリットは乗換回数が減ること、終着駅(同時に始発駅)での折り返し運転による時間的ロスがなくなること、それと同時に過密なダイヤ編成ができることである。

広島電鉄の路線図の一部 紫色が循環線(広電のサイトより引用)

なにはともあれ、新路線が開通したということは、乗り鉄が趣味で国内全路線を乗車する目標を持つ私も新幹線で広島まで行かねばならぬことになったのである。

(蛇足:富山の路面電車の線路は富山駅から離れているが。線路をT字形に敷いてJR富山駅へ接続している。)

広島駅近傍の広電路線 (2025年当時)国土地理院より

新旧の広島駅近傍広電路線図 (2026年4月)googleMapsより

さて、上下二つの写真は、広電の路線を赤線で示した空中写真である。旧の路線は西から東へ走る路線が荒神箸を渡ってから左に曲がって広島駅に入っていく。また、川沿いに北上した路線は橋の手前で直角に曲がって橋を渡っている。

そして、新路線は駅に真っ直ぐ向かっている。黄色は廃線である。そして、青線が新規に追加となった路線であり、これによって循環線が完成したのである。なんてことはない、循環線は既設路線をそのまま使って、ひとつの交差点を曲がる僅か数十mの線路を新設しただけで出来上がったのである。

正面に荒神橋を望む新路線(地図中の青線部分)

循環線となった線路のほぼ99%は既に乗っているのである。といういことで、広島駅から一駅目の稲荷町電停(写真中の十字路)で乗換えて、橋の手前で曲がる路線に乗車し、次の的場町電停で折り返し、広島駅に戻り、当日の乗り鉄は完了したのである。

循環線の車輌

なんで、一周しないかという読者への質問に答えておこう。説明のために横浜と品川間のJR線を取り上げたい。ここには東海道線、京浜東北線が並行して走っている。この場合、どちらかに乗車したら両方とも乗ったことにしているのである。勿論、京浜急行と東海道新幹線は個別に乗車しているが、JRの並行して走っている線はそのうちの一本乗れば全部乗ったことにしているのである。循環線とはいってもほぼ既存の線路の上を走っているので、あらためて乗ることもないのである。

なにしろ、友人と食事と酒の約束をしていて予約もしてあるので、時間の余裕がなかったのである。また、この広島往復の前後で京都の春を楽しみ、鞆の浦を見物し、福山城にも登った。鉄道に乗るためだけで旅行をしているわけではないのである。

ちなみに食事した店はここ

http://炉 本通り 然然 (本通 / 和食) https://retty.me/restaurant/100001544067/?utm_source=ipaShareReport

西信貴ケーブル

鉄道路線には参詣線と言うものがある。読んで字の如く神社仏閣へお参りに行くために敷かれた鉄道である。

その中で一番有名なのは成田山新勝寺へ続くJR成田線と京成電鉄成田線であろう。そして、同じように京急川崎駅から川崎大師に向かう京浜急行大師線が有名だ。なお、大師線といえば西新井大師に向かうたった一区間の東武鉄道大師線がある。映画フーテンの寅さん「男はつらいよ」に出てくる京成金町線は御前様のおわす柴又帝釈天へ詣る客が多い。また、京都の叡山鉄道本線や鞍馬線は説明するまでもないと思う。

信貴山ケーブル近辺の路線図(近鉄ウエブサイトより引用)

今回は近鉄大阪線の河内山本駅から出ている近鉄信貴線という参詣線に乗車した。河内山本駅を出ると二駅目が終点の信貴山口駅である。行き止まりの線路と直角にケーブルカーの駅があって屋根は繋がっており、途中に改札口もない。乗り継ぎの改札口がないということは、電車を降りた客のほぼ全員がケーブルカーに乗るという前提なのであろう。

信貴山口駅構内(左に電車、右奥にケーブルカー)

西信貴ケーブルのケーブルカー

駅の構造としては箱根登山鉄道の終点であり、箱根登山ケーブルの始点である強羅駅に似ているが、この駅には改札口が両方の鉄道にある。これは強羅という地域に宿泊施設や公園があって、この駅で降りてしまい、ケーブルカーを利用しない客が多いことが想像できるのである。

 

因みに、筆者が乗車した2025年秋には、箱根登山鉄道にはSuicaなど鉄道系カードを使うことができたが、ケーブルカーは「対応予定」となっており、それだけで乗客数の彼我を感じることができる。売上が少ないと投資ができないのである。

 

脱線はこのくらいにして、ケーブルカーに乗って終点高安山駅に到着すると駅前にバスが待っている。ここからのバスルートも以前は信貴山急行電鉄という鉄道路線があったが、大東亜戦争の末期に不要不急の路線として廃止された。当然ながらケーブルカーも同じ運命になったが、昭和32年に復活したのである。振り返ると戦争末期当時の日本は複線であった御殿場線(当時は東海道本線)を単線にして、外した線路の鉄を武器の材料に使うほど困窮していたのである。

ケーブルカー高安山駅バス乗り場 (駅舎側から望む)

西信貴ケーブル説明板

私は乗り鉄なのでこのバスには乗らずに次の便で下へ降りてしまったが、帰宅後に調べると、バスは10分ほど走って信貴山朝護孫子寺の山門に到着する。山門の前にある巨大な寅の張り子が有名だけでなく、本堂、三宝塔、多宝塔、など十指に余る堂宇と宿坊が山肌に沿って並ぶ堂々たる大寺院であった。大晦日には24時を跨いで電車が運行されて初詣の客で賑わうというから、東京の明治神宮や神奈川の川崎大師のようなお寺なのであろう。

信貴山朝護孫子寺の山門 イラスト (Gemini3による)

 

私にとっては日本史の教科書に描かれている絵巻の写真(下記)と「信貴山縁起絵巻」という言葉だけが頭にあって、聖徳太子に所縁のある大寺院だということは全く知らなかったのである。教養がない人間はこういうところで機会損失をしてしまうのである。浅草まで出て来て浅草寺の山門も見ず、お寺も参詣しないで帰るようなものであった。私は徒然草の「仁和寺にある法師」の章を思い出さずにはいられないのである。実に「何事にも先達はあらまほしきことなり」なのである。

信貴山縁起絵巻 飛倉の巻

なにはともあれ、近畿鉄道株式会社の運営する「生駒山ケーブル」とこの「西信貴ケーブル」の2本を午前中に乗り終えて、「近鉄完乗」と同時に「大手私鉄完乗」を果たしたのである。下記はその記録である。

https://raillab.jp/member/tanakin/summary/companies#private

 

そして、その後は近鉄で鶴橋に出て大阪の環状線で大阪駅へ、新快速で新大阪駅で新幹線に乗り換え、駅弁を買い込み広島駅で下車し、先月の3月に開通したばかりの広島電鉄の環状線に乗ったのである。乗り鉄は時間を無駄にしないのである。